こども六法プロジェクト[3]

活動報告が出ました。

 

すごい…すごいぞ、どんどん進化している!

 

進化しているというか、「成長している」と感じました。
発展とか進化とか、いろんな言い方があると思いますが、「成長」がいちばんピッタリな気がします。

 

 

前回の活動報告を読んでから、自分の視点について何度も考えています。


私の視点はどこにあるのか。

 

私の視点はやっぱり「ひとりの担任の先生」なんです。
自分のクラスがあり、そのクラスに対して愛情があり、責任があり、誇りがあり、守りたいという願いがあり、守らねばという使命感がある。

 

私はいつも「いかにいじめを起こさないか」に必死でした。

 

生徒からの情報を得るルートを構築し、保護者との連携を深め、私を中心としたネットワークを広め続け、深め続けました。


一番大切にしていたのは、子どもたちとの信頼関係です。


どんな時でも、どんなワガママでも言える相手であろうとしました。
子どもたちのワガママを全て叶えるわけではありません。きちんと取捨選択をし、子どもたちの本気度合いに合わせて、叶える度合いを調整します。もちろん、愛情をもって突っぱねる時もある。子どもたちもそれを分かっていて、冗談混じりにいろんなワガママを言ってくる、そんな状態を作ることを目標としていました。

 

保護者からの評判も上々。
いつでも上手くいくわけではありませんでしたが、それでも、子どもたちとの関係は良い方だと思っていました。

 

でも、いじめは、起こったのです。

 

子どもたちとの関係が深いからこそ、子どもたちは私の「視線の届かない場所」を知っている。
この先生は私たちをこういう風に見ている、こんな風に信頼してくれているから、ここは見てこないはず。
そこで、いじめは起こったのです。

 

私は、全部私が守ろうとしていました。
この手の中に全てを収めて、コントロールしようとしていました。

 

そして、そこそこ上手くいっていると思っていたのです。

 

子どもたち自身が自分の身を守る方法を、提示するという考えはなかった。
子どもたちが身を守らねばならない状況を作らなければいい、と思っていたからです。

 

今から考えると、なんという自惚れでしょうか…

 

こども六法を各教室に、という話を最初に聞いた時、「置いておくだけでは意味ないんだよ。どう活用するかを指導しなければ、埃をかぶって忘れられる存在になるだけなんだよ。」と思いました。
どんなに面白く作っても、そう簡単に子ども達の興味を引き付け、そして維持することは出来ないんだよ、と。

 

私にとって、こども六法は「教材」でしかなかったんですね。
先生が、子ども達に指導をするための題材という視点。

 

全国の学校の教室にこども六法が置かれたら、いじめの根絶は出来ないとしても子供たちに一つの選択肢を提示できるのではないか。
―CAMPFIRE活動報告より

 

選択肢を得るのは、子どもたちなんだ!
この本を読んで、どう活用するか考えるのは、子どもたちなんだ!

 

この本を使ってどう教えるかという選択肢を、教員が得るためのものではない。
この本を読んで、どう活用するか考えさせる場を作らなければいけないというのは、教員の、自惚れた、そして子どもたちを信用していない考えだ。

 

この本を得ることで、子どもたちに、自分の身を生かす(守るのではなく、生かすという表現を使いますね)選択肢が、増えるのだ。

 

教室に法律を持ち込むということ。
校則や、クラスのルールとは重みや鋭さの違う、法律を持ち込むということ。
これを正しく使うことで、身を生かす選択肢が増える。

 

ルールというものは何のためにあるのか。
私自身が再考せねばならぬと思いました。

 

校則の〇〇が嫌だ!なくして!という生徒に、「〇〇は、△△という状況にみんながならないようにするために作ったもんだよ、だからなくなったら困っちゃうかもよ?」という話をしていたことを思い出しました。 

 

法律は、みんなを罰するためにあるのではない。
法律は、みんなを守るためにあるものだ。

 

今日の活動報告を拝読して、ここの認識を、私自身が深めておかねば、と思いました。

 

 

 

 

 

そしてもうひとつ。
自分の視点を振り返る中で、自分の中に重く広がっている想いがあるので、ここに書き留めておきたいと思います。

 

私は、小中高時代に、はっきりと集中したいじめを受けたことはありません。
小学校で転校を、高校では留学のための休学をし、目立つ存在ではありましたが、いじめを受けることはなく学校生活を送ってきたと思います。


振り返ってみても、幸せな学校生活を送ってきたのではないかと思います。

 

 

やまそーさんの体験を読みました。
そして実際に話を聞きました。


いじめのその状況を、私自身が体験することは出来ません。
想像することしか出来ませんが、それでも、出来るだけ意識を落とし込み、語られるその状況を追体験するようイメージしました。


どんな感情が湧き起こったか、あえてここには書きません。
本当にそれを体験された方からすれば、私が語る言葉など、真実からは程遠いものでしょうから…。

 

やまそーさんは、私にとって、大切な俳優さんです。

「知り合い」とも、「友達」とも違う存在。
尊敬し、心から応援をする、特別な存在です。

 

ご批判を覚悟で書きますが、他の方のいじめについて聞いた時に感じるのは、あくまで外側からその状況を観察して感じる怒りや悲しみや危機感です。
人並みに、いじめへの嫌悪感を抱き、問題意識を感じ、根絶できるのであればそうすべきだと心から思います。
ただ……漠然としている。
漠然とした問題意識。

 

いじめの状況を語って下さったやまそーさんを目の前にして、
大切な人が、いじめを受けている、その場面をイメージすることは、私の視点を変えました。
息も出来なくなるような、重い鉛のような感覚。
絶望という言葉を、ただ言葉として発するのではなく、本気で胸の中に広げてみて、改めて感じる絶望の感覚。

 

怒りとか苦しみとか、言葉で表せるものではない。
ありとあらゆる負の感情。
払いのけることなど出来ず、絡めとられ、纏わりつかれ、その場にうずくまって心の中心を守ろうとしてもじくじくと中に入り込んでくる。

 

同じ痛みを私が感じることは絶対にできませんが、外側からしかいじめの問題を考えられていなかった私に、変化が起こっています。

 

プロジェクトに賛同して、教員という経験を活かして応援したい。
表面的であったこの思いは、どんどん私自身の内面へと向かっています。

 

教員が、自分のクラスをより良くする為の教材として、こども六法を活用することは有効でしょう。
でも、ただの教材として手に取るのではなく、この本が生まれた経緯をよく知り、感じ、味わうことで、ただの教材以上のものを受け取るべきです。

 

「子供たちの手に渡ること」はひとつのゴールです。
同時に、「教員の手に渡ること」もひとつのゴールなのです。

 

どうか、ただの教材としてではなく、心の結晶として、先生方の手に渡りますように…

 

今回も、お読みいただき、ありがとうございました✨✨✨