こども六法プロジェクト[5]

【イタリアの新聞の記事を読んで。】

 

活動報告が出ました。

なんと、イタリアの新聞に載ったとのこと!!!

 

じっくりと文章に向き合う時間が取れず、報告が出てから随分時間が経ってしまいました。
この記事が出た時、読みながら、心に思うことがあまりにも多くて、さらりと書いてしまえる内容ではないなと思い、じっくり向き合える時間が出来るまで書けなかったのです。

 

イタリアの新聞。
このプロジェクト、海外に広がったの?急展開だ!と驚いたのが最初でした。


しかし、記事を読んで、日本という文化を外からの視点で捉えられる媒体がこのプロジェクトに光を当ててくれたことは、大きな意味を持つと思いました。

 

記事全文を、是非リンク先で読んでみて下さい。
ハッと気づかされることがたくさん含まれています。

 

日本にいると見えづらいですが、日本文化はかなり閉鎖的です。
私はアメリカに1年住んでいたのですが、その時にそう感じました。

 

アメリカには、たくさんの人種がいて、いろんな国から人が集まってきていました。
ひとつの教室に、肌の色も、髪の色も、着るものも、食べるものも違う子どもたちが集まっている。それが普通。
隣の席の子の持ち物は全然違っていて当たり前だし、朝お祈りをする習慣がある子とない子で部活の集合時間が違うのも当たり前でした。


日本は。
見渡す限りほとんど同じ人種しかいない。(もちろん外国の方もいらっしゃいますが、ほとんどが日本人というひとつの人種です。)多少の地域的な文化の差はあっても、生活の基本の部分はほぼ同じ。それが当たり前の世界です。隣の子が茶髪にしたらみんなが茶髪にしたがるし、美白が流行ったらみんなが美白を始める。アメリカから帰ってきて最初に日本の学校に登校した時「うっわ、みんな同じ格好してる……なんだこれ」って思ったことを覚えています。

 

…と語っていると長くなるので、今日お伝えしたいのは次のことです。
「日本という文化の中にいると、『当たり前(常識、暗黙の了解、“普段”)』という感覚が、自分が思っているより強い影響力を持っている。その『当たり前』の中で暮らしてさえいれば生活に支障はなく、その『当たり前』以外のことを考えようとしなくなっている
これを肝に銘じておかなければならない、ということです。

 

いじめに関しても、日々報道される内容や、自分自身の学校体験の中で培ってきてしまっている『当たり前』が、見るべきものを霞ませてしまっています。

 

イタリアという異文化からこのプロジェクトに焦点が当たったことは、本当にいろいろなことを考えるキッカケをくださいました。
もう一度言いますが、記事全文を、是非リンク先で読んでみて下さい。


今日は記事の中から3つの部分を引用させてもらって、考えを述べてみたいと思います。

 

このプロジェクトを支援するときに、「やるなら本気で関わる」と覚悟を決めました。
これまで、ひとりの教員としてそこそこの経験を積んできました。
しかし、その割には考えが甘かったり、勘違いをしていたりすることも多いと思います。
本気で関わると決めた以上、ご批判を受けることも覚悟して、自分の正直な思いを書き残しておこうと思います。

 

そもそも彼がいじめられていた原因は加害者に言わせれば「スカしている」というもの。小学校の成績が優秀で読書が趣味だったことが他の児童に対する脅威と映り、「出る杭は打たれる」という日本のことわざ通りだったのです。

この文章を読んで、「そう、そう、それなんだよ」と思いました。
「スカしている(関西だとイキッっている)」をスパッっと文章にしてくださっていることに、ちょっとびっくりしました。


その通りだ。と思うと同時に、ここまでハッキリ文章にすることって…今まで、避けてきたな。と思いました。

 

いじめの原因を探ろうとするとき、これと言ってハッキリとした原因があることは少なかったです。
「なんとなくむかつく」
この理由がいちばん多かった。
私が今まで勤務してきた学校では、これ以上の原因の追究をすることはほぼありませんでした。
「原因を追究することで、本人が傷つくのを防ぐ」「原因を調べることよりも現状を改善する方が大事だ」といった理由で。
学校として、原因追求に時間をかけすぎるよりも現状改善をという指示が出るのは一理あると思いますが、原因を細かく追及しなかったのは、この記事が書いて下さっているような真っ直ぐな言葉を文書にして残すことを嫌ったからかもしれないな、と、この記事を読んで感じました。

 

「担任の推測でしかないことを『文書』にして残さないこと。具体的に起こっている事実のみを記録すること。」
と指示を受けたことがあります。


実際には、自分の推測や感じたことも記録していましたが、それは「担任の(勝手な)記録」として、学年会(いちばん最小単位の組織)の会議以外には出しませんでした。


推測は、確かに、間違っていることもありましたし、それを基に動くことが悪影響を及ぼすことも理解していたので、「推測に振り回されてはならない」という『当たり前』を受け入れていました。


また、「一方の生徒を明らかに悪く言うような文章は避けるべき」という『当たり前』も存在していました。
記事の中で言う「脅威」といった言葉を生徒に向けて使うことは避けるよう指示されていました。

 

現在は退職していますので、当時の記録を私が見ることは出来ませんし、自分が勝手に書いていた記録ももちろん削除してあるので、記憶をたどるしかないのですが、学校からの指示に慣れた『当たり前』に溢れた文章しか書いてこなかった気がします。

 

 

本の学校は興味深いことに社会一般の制度に則って暴力事件の解決を行うことを忌避する傾向があります。そのため暴力事件や金品の強奪といった事例が発生した場合でも警察沙汰にはせず、加害者と被害者を和解させ、元の友人関係を再建させようと努めるのです。

本の学校は興味深いことに……。
やわらかく包んでいる言葉での表現ですが、要するに、日本の文化の外から見ると、このことは「おかしなことだ」ってことですね。


こども六法の動画のキーフレーズが
       大人にとっての犯罪が
       こどもたちの日常であってはならない
       いじめという犯罪をなくそう
であったことを思い出す文章です。

 

記事に指摘されている通り、暴力事件も、金品の強奪も、「生活指導」という指導を行って解決してきました。
私が担任していたのは中学校ですので、義務教育期間中であり、自宅謹慎や停学という措置は取れません。学校に登校させ、一定期間別室指導を行った後、当該生徒同士、そしてその保護者同士の謝罪や和解を経て、教室に戻す、という流れが一般的でした。

(指導の方法は学校によって違うと思いますので、ここに書いたことが全てではありません。)

 

問題は。
それが『当たり前』だと、教員自身が思っていることです。
初任当時は、「なんで『指導』だけでええんやろ?」という疑問はありましたが、何年もそれを続けていると、それが当たり前になってしまっていました。「警察沙汰にするなんて、可哀想だ」などという気持ちすら持っていました。

 

…こども六法を気に、勉強しなおさねばならないのは教員かもしれません。本当に。

 

ご批判を承知で本音を書いておきますと…
教員も、人間ですから、叩かれるのは嫌なんです。
学校がそう言うなら、その通りにしておこう。自分の中に疑問があったとしても、とりあえず押し殺して、執行部(校長や教頭などの学校運営に携わる先生方)がそう言うなら、その通りにしておこう。そうしたら、自分のせいにはならない。もし、やり方が間違っていたとしても、「学校に言われたからそうしました」ってことで、自分は守れる。

 

……これを続けていくと、いつしか自分の中にあった疑問は薄くなって、それよりも「この指導を軸にするとしたら、どうすればいいのか」という工夫をすることに心がシフトしていきます。


学校から指示される指導ありきで、その上で自分の工夫をし始める。これでいいのか?と思う疑問や不安のベクトルの指す先が変わってくるんですね。


最初は「このやり方でいいのか?警察には言わないのか?」と思っていても、年数を重ねると「このやり方でいいのか?この生徒をこの環境で指導するにはどの道が最短ルートか?」と言った思考回路になってくる。

 

私も、『当たり前』に支配されている教員だったんだな……と、反省の気持ちを持って振り返っています。

 

 

どうして学校は法制度や権利問題を教えられないのですか?
個人的な意見に過ぎませんが、大まかに三つ理由があると考えています。一つはそもそも先生が法律を知らないということ、二つ目は少年院などの法的手続きを通じて更生機関に送られた子供の更生は多くの場合望ましいものになっていないという残念な現実を知っている教師が制度自体を信用できないこと、そして三つ目は教育的手段として体罰等を用いているほんの一部の教師にとって生徒が法知識を習得することはかえって都合が悪いことが挙げられます。

一つ目の理由。
………痛いです、その通りです。

もし、法律について問われたら、私は数学教師ですので、「法律?知らないよ…。数学の先生だもん、知らなくて当たり前じゃん。」と逃げてしまいます。

 

この記事の中でも次のように書かれているのですが

多くの日本人が法律や政治制度に興味を持てないのは、こういったものが日常生活とは関係ないものという意識が強く、むしろ精神的な抵抗さえあるのが一つの原因です。

まさにこの通りです。精神的な抵抗……とまでは行きませんが、法律は専門の人が考えるもので、自分からは遠いものだと思っています。


……問題の多い教師ですね、私💦

 

正直、2つ目と3つ目の理由はピンと来ませんでした。

 

先ほども書いた通り、学校での指導は法律に関係なく、その学校の教員が会議を行って個々の生徒に合った指導方針を決め、それを基に生活指導を行います。それが、『当たり前』なんです。


法律のことをよく知らない私たちはこう言うと思います……「生徒はひとりひとり違うんだ。成長の度合いも、抱えている問題も違う。そんな多様な生徒に法律を当てはめても、見当違いなことになるかもしれないじゃないか。私たちは、生徒ひとりひとりに焦点を当てているんだ」と。


この国で生きる全ての人の為にある法律なのに……それをよく知ろうともせずに、自分たちの目を信じて指導している、それが現状かもしれません。

 

学校の先生こそ、「法律は大人のもの。多感で多様なこどもたちには当てはまらぬ。」と思い込んでいるのかもしれません。


だから教えない……のかな?

 

***

『当たり前』になって麻痺していることに気づき、改めて問題意識を持つべきであると気づきました。
問題を急に解決することは出来ずとも、まずは問題があることを認識し、目を向けることが必要です。

 

特に日本という国は、当たり前のことをしていれば穏便に過ごせてしまう文化です。
それは楽だけれど、いつしか問題や疑問に無関心になってしまう、危険もある。
イタリアからの光が、警笛を鳴らしてくれたのではないでしょうか。

 


記事全文について感想を述べると長くなりすぎるので、今回は特に印象に残った部分を引用させていただいて、私の心を記録しました。


このプロジェクトの展開と共に、これからも変化していくであろう心を見つめていきたいと思います。

 

最後に。
学校によって指導方針や指導方法は異なります。
また、私の視野は広いとは言えず、手探りで教員生活を積み重ねていました。
見落とし、勘違い、不勉強、未熟が随所にあります。
私の書いた文章は、あくまで私一人の見解です。

 

今回も、お読みいただき、ありがとうございました✨✨✨